人を裁くのを辞めると、楽な人生になり、自分の人生が望む様な展開をしていくようになる

ども、桜庭です。ま~ちゃんです(๑•̀ㅂ•́)و✧
※この記事は2018年7月12日の修正版です。

人は常に何かにジャッジしています。
『あれはだめだ』
『これは最高だ』
『あの人はダメだ』
『今までで一番おいしい』

1つの出来事は
ただの出来事にすぎません。
その出来事に善悪高低つけているのは
他でもない人間です。

南北に良し悪しは無いように
出来事には本質的には良し悪しは
ありません。

そしてすべての瞬間には
全く同じではない奇跡の瞬間なのです

地球は善悪を断罪はしません
許されているから存在しています。

ジャッジは好き嫌いの
意識の奥にあるもので
『許せない』
といった思いです
○○な人は許せない、、、と

その思考は自分の人生の
足かせとなっていきます。

おお、恐ろしや、、、

なぜなら、その相手に向けての
「許せない」は
意識(脳)には自他の区別がないため
「そんな自分=他人は許せない」
だからです。

そして、このような信念を
『正しくある必要性』といいます
又は言い換えると
「常識やルールに基づいて自他ともに裁くこと」
ダメ・凄い・高・低・良い・悪い
これらは実際には相対的で絶対的な基準は
人間の概念にしか存在せず
真理ではありません。

人として「こうあるべき」姿があり
そうでない他人=自分はダメである、、、とね

自分の中のジャッジはこんな言葉で出てきたりします
「○○さんに、□□と思われたくない」
っていうワードですね。

その人の『正しくある必要性』が基礎に
他者を判断する「パターン」が形成されます。

この正しくある必要性の中に
幼少期や過去性、更には先祖の無念として
形成された
親との関係性、
満たされなかった思い、起源や
愛されなかったという思い込み
そのような葛藤がコアに存在しています

ちなみに
ユダヤの哲学では
「相手の立場に立たないで人を判断するな」(タルムード)と
「他人と比較しない」(ユダヤ人)があります。

ここでいう相手の立場とは
相手のことを考えるというレベルではありません
「相手そのものになってください」

相手として行動し、
相手として表現する

すると、相手と真に同期できて
相手の動機・意図も明確になってきます。

すると、「ただ、わかる」感覚になります

「ああ、相手=私はまた、□□な事を考えていたんだ」
と、「ジャッジしていることに気付く状態」になります。

そこでストップします

ストップしないと、「でも、良くない」など
独自の信念に基づいた「判断が」自動的に始まります。

止めるのは徐々に慣れて行きましょう

そんな『ノンジャッジ』の視点を
持つことは
やがて足かせが外れ
自分の行動もどんどん許可できるようになり
人生の展開という面で大いに役立ちます。

善悪は無い
プラス・マイナスも無い
すべての瞬間が『奇跡』であるのです

投影の心理でいうと
相手に裁き、禁止事項を見出すのは
それだけ自分も肩身の狭い思いで
生きているということでもあります。

NLP的に言うと
裁くことで得ているものがあります。
(すべての物事には肯定的な意図がある)という考えです

なんでしょう?
これは、最初に戻って
「私は正しいんだ」と
「安心し確認」している状態を得ている
と言えます。

そして、もうひとつあります
それは
他者からジャッジされている感覚を許すこともジャッジになります。

え?どういうこと?
つまり
「あ~あの人に何か言われてる気がする、ショック~」
という感覚です。
これは自らを裁く事です。

でも、冷静に考えてみてください
他者からジャッジされても、
実際には、それはその人が
自分の好みを言っているに過ぎないんです
まず、ここを理解します。
ジャッジは基本的にお互いに「推測」でしかないんです。

ジャッジは
「絶対○○さん△△だよ~。知らんけど」
と同じなんです。

こんな
他者の意見に振り回されるのは、
奇跡ともいえるほどおかしなこと。

それよりも、どんなことも
自分自身の感覚に基づいて決断することが大事。
他者の基準によりかからないこと。

少し言い方を変えると
【他人の反応を心配することをやめ、
どんなときにも自分自身でいることに集中する】

また、
「善悪を瞬時に判断する人間としての習性に、意識的であること」
(良いと思うこともジャッジ)ジャッジとは「善悪の判断」

観察者の視点でいれば、
仕事や子育てといった、
社会的な活動の中でも、
ジャッジを減らしていける。
「ジャッジ(裁く・判断する)」ではなく、
純粋に「観察・認識」すればよいのです。

「ジャッジ」と「認識」の違いは、
相対的な比較を持ち込むか否か。
例1.「この木の幹は茶色、葉は緑色だ」→認識
「この木の幹の茶色は私が今まで見た中で最高の茶だ」→ジャッジ
例2 「乗ろうとしたバスの運転手が顔をひそめている」→認識
「運転手は(顔をひそめているから)きっと悪い奴のようだ」→ジャッジ

【君の役割は、世界を変わる必要のあるものとして、
‘裁く’ことではなく、‘観察する’ことなのだよ】
イーライ先生

自分も善悪は本質的には無いと思っています
人間が勝手に作り上げた『幻想』ですね

人間の基準で善悪が決められ
それに該当するから一喜一憂する

二元性は学びが多いですが
十分学んだ方々には、次のパラダイムに
シフトしてもいいのではないのでしょうか?

というわけで
善悪の無い
ノンジャッジの視点を持って生きたいですね
٩( ‘ω’ )